人は「忘れる」生き物である
人は、「忘れる生き物である」ということをいつも忘れてしまう。
正確に言うと、「思い出せないだけ」なんだが、思い出すためにはメモをとったり、何度も読み返して、記憶に定着させる必要がある。
「記憶力がいい」とか「一発で覚えなくては」と、意気込む必要はない。
「人は忘れるのが当たり前である」ということを認めなければならない。
思い出してほしい。
今まで生きてきた中で、すべてを覚えているだろうか?
例えば、今日の起きてから今までの間に行ったことをすべて詳細に思い出すことができるだろうか?
満員電車の中で思った感情、スクランブル交差点ですれ違った人の顔や性別、路地裏で嗅いだ空腹をうならせる香ばしい匂い・・・・
一体、今日だけでもどれだけの情報が頭の中に入ってきて、その中のいくつが詳細な記憶として取り出すことができるのか・・・?
このように、人はたった1日の出来事でも、すべてを細かく思い出すことはできない。
それもどうでもいいことなら尚更、思い出すことは難しくなってくる。
これは頭のエネルギーを節約するための人体に備わった立派な機能で、覚えていないことを気にする必要はないのである。
そのことを踏まえて、思い出す工夫をしていく必要がある。
メモをとったり、付箋をしたり、キーワードだけを覚えておくのもアリだ!
動画や写真に残してもいいし、ボイスメモを取っても構わないかもしれない。
そんな風に、人は忘れることをが前提であり、覚える速さも個人差があるということを理解しておく必要がある。
決して、「自分は物覚えが悪い」とか「記憶力がない」といった風に、
自分を卑下するのは止めて、
「何をすれば自分は思い出せるのか?」「何をしたら思い出しやすいのか」ということを自分自身で工夫していく必要がある。
その方法が「メモ」だったり「写真」だったりするわけである。
そして、思い出すには思い出す練習をしなければならない。
それが「アウトプット」だ。
実際に紙に書き出してもいいし、声に出してしゃべるのもいい。
よく言われる「人に教えることは自分の勉強にもなる」というのはこのことで、
結局「人に教える」という行為は、自分の知識や技術をアウトプットしているわけだから、覚えていないとできないことだし、曖昧なことは正確に教えることができないのである。
「人は忘れる生き物」ということを念頭に置き、
思い出す工夫を自分なりに見つけていく必要がある。
それがわかれば、「勉強」というものに対する嫌悪感が薄れ、今までの人生を変えられる希望が見えるのではないだろうか。
目の前のことに集中すれば他のことはどうでもよくなる
どんなに心配ごとがあっても、どんなに不安になっていても、どんなにイライラしていても目の前のやるべきことに集中すれば、ネガティブな感情はどうでもよくなって、気がついたら忘れてしまっている。
逆に言えば、心配事や不安、怒りといったネガティブな事に集中してしまうから、そんなことばかりが頭の中をかけめぐって、苦しい思いをしてしまう。
つまり、自分にとって、
”一番集中しなければならないことをどれだけ優先させられるか”ということ。
例えば、ご飯を食べにお店に入ったとしましょう。
そこで、マナーの悪い客がいて、それを注意したら口論になり、その日は1日中気分が悪く、食事もおいしくなくなります。
それは「食事する」ことを優先しないで。「マナーの悪い客に注意する」ということを選んでしまったため起こったことです。
そんな客の相手をわざわざしなくても、仕事としてお店を管理しているスタッフに言って対応してもらえばいいだけのことです。
それでも、こちらに危害がおよぶようなら、
このお店自体が悪いので、二度と行かない方がいいでしょう。
要するに、食事に来たんだから、それ以外のことはどうでもいいことなのです。
隣の客がうるさかろうが、食べ方が汚かろうが、
こちらには一切関係なくてどうでもいいことじゃないですか?
余計なことに気をとられて、無駄にエネルギーを使うのは止めるべきです。
1日の内で使える時間もエネルギーも限られているわけですから、自分にとってプラスになることに、より多くの時間とエネルギーを使うべきだ。
この記事にしても、これを書くことに集中しているから、ゲームやTV、マンガといったものに惑わされることなく書き進められる。
そして、不安も心配事も忘れて、とりあえず書き終えることに集中できるのだ!
嫌なことがあっても、不安があっても、目の前のやるべきことに集中していく。
そうすればネガティブな事を考えずに、今よりもさらに向上していけるはずだ。
しっかり集中して、やるべき事を終えた後は、達成感に満ち溢れて気分が晴れやかになっているのを感じれると思う。
不安になっても立ち止まるな
今まで「自信」を持ってやってきたことを否定されると、不安で心がいっぱいになってしまうことがある。
直接、誰かから否定されることもあれば、勉強して情報を集めているときに間接的に否定されて、気分が落ち込むことはないだろうか?
「自分には才能が無いのだろうか」
「やっぱりあの時、あれをやっておけば(止めておけば)よかった」
「これまでやってきたことは全部無駄だったのか」
そんな感じで、自分で自分を追い込み、余計にネガティブな気分になって、やる気を無くしてしまう。そして、怖くなって手が止まってしまい、最終的には諦めてしまう。
夢や目標を叶えようとするとき、必ずどこかでそんなことを思ってしまうときがある。
だが、よく考えてほしいのは、
「否定してくる人は、自分の思い描く道で成功している人なのか?」
ということだ。
例えば、「野球選手になりたい!」という夢があって、
それを学校の先生は「野球選手になれる保証はないからちゃんと勉強しとけ」と、
言っているのをよく聞く。
学校の先生じゃなくても、親や友達、知り合いから、言われたりもするだろう。
さて、じゃあこの人たちは野球選手を目指してきたのだろうか?
答えはノーである。
野球選手を目指してこなかったから、「それを目指す」ということがわからないから否定してくるのである。
「野球選手になるためには?」という目標に対して、どうゆう環境で、どうゆう練習をしなければいけないのか、今の実力は全国でどれくらい通用するのか?、野球選手はどんな練習や経緯を経てプロとして活動できるようになったのか・・・
そんなプロセスがわからないから、否定という手段をとってしまう。
そんな人に否定されても気にする必要はない。
同じ土俵に立っていないのだから、そもそも論外なのである。
否定意見を聞くなら、最低限、同じ土俵に立っている人の意見を聞くようにしよう。
そして、同じ土俵に立っている人はたいていの場合、
否定ではなくアドバイスをくれる。
なぜなら、自分自身が失敗した経験があり、それをどう乗り越えるかを考えて、今の立場にいるからだ。
だから無意味に否定の言葉に反応するのではなく、今からどうすれば一歩でも成長し、目標に近付けるか、何をすれば夢を叶えることができるのか、ということに集中して取り組んでいかなければならない。
否定され、不安になるということは、自分でも「何かが足りない」と感じているからで、それを解決できる力を身に着けていくことで、ちょっとずつ目標に近付くことができる。
「不安になる原因」を見つけ出し、それを解決する力をつける!
そうすれば「自信」をもって歩いていくことができる。
たいていのことは思っているより大したことにはならない
6年間、取り組んできた事業を辞める決意をした。
自分で言うのもなんだが、結構本気でこの事業に取り組んできたと思う。
この事業に取り組むときは、周りからすごく反対され、心配されて、それでも自分の意思を貫いて今日までやってきた。
結果は・・・見事に失敗だった。
だから、それを辞める決意ができたのだ。
6年間はものすごく長く、時間も労力もそれなりにかけてきた。
それを簡単に「辞める」の一言で終わらせていいのかと、
かなり頭を悩ませた結果の決断だった。
しかし、
本人が思っていたよりも「辞める」という一大決意はたいしたことではなかった。
たしかに、その事業に関わってくださった人たちからは驚いた声を頂いたが、
結局はそれだけだった。
考えていたよりも僕の「辞める」という要求はあっさり受け入れられ、
僕自身も未練や後悔といった思いは少なかった。
改めて思ったことだが、どれだけ頭を悩ませて、決断を下したとしても、
大体のことは大きな問題とならない。
というか、本人が思っている以上に、大した結果にはならないのだ。
例えば、学生時代に進路や就職などで頭を悩ませたことがあると思う。
「行きたい大学に行けるのか?」とか「就職先が見つかるのか?」とか、他にも住む場所とか、新しい環境でやっていけるのかとか、色々不安や心配があったはずだ。
しかし、いざその時がやってくると、考えていたよりもたいしたことはなく、むしろ大抵なんとかなっていると思う。
これは「手離す」ときも同じで、「これ無くなったらどうしよう・・・」と悩んでいても、無くなってしまうと、そこまで大きな影響はないことが多い。
他にも「仕事を辞める」、「学校を辞める」、「免許を返納する」、「田舎に住む」などなど、普通に考えれば、大きな決断だが、これらが無くなっても、意外となんとかできると思う。
仕事を辞めても、貯蓄や失業手当があれば、次の仕事が見つかるまで生活はできるだろうし、もしそれらが無くても、たいていの人はとりあえず「バイトでも探すか」ってなると思う。
学校を辞めても、就ける仕事はいくらでもあるし、免許を返納してもバスや電車も使えるし、自転車も乗れるし歩くこともできる。もっと言えば、お金さえあれば通販でほとんどの生活必需品を手に入れることができるから、免許の必要性は高くなくなる。
田舎に住めば・・・・
と、話が長くなってしまうのでこれくらいにして。
つまりは、たいていのことはなんとかなるからどんどん行動していこう!ってことだ。
自分の人生をより良くしていくためには、こういった決断が必要になってくる時がある。それは、いつもやっていることや大切にしている何かを「手に入れたり」「手離したり」するときに必ず腹をくくって決めなくてはならない。
「決断する前」は不安や心配で、心が落ち着かないかもしれないが、これまでの過去を思い出すと、ほとんどの場合がたいしたことにはならなかったはずだ。
だから、どんどん自分の思いを形にしていく勇気をもって行動しよう。
その決断が「いいもの」になるか「悪いもの」になるかは、
それからの自分次第なのだから。
いつもの「あたりまえ」からアイデアを引き出す
いつもと同じ仕事をしていると、それが段々とマンネリ化して、
つまらなく感じてくる時がある。
特に、成果や進歩が感じられないときには、尚更つまらなく感じてしまう。
そして思うのは、「もっといいアイデアが思いつかないかな?」ということだ。
「このやり方よりもっといい方法はないか?」とか「この仕事よりもっといいのがあるんじゃないのか?」といった感じで頭を悩ませてしまう。
そして結局、いつもと同じ仕事をして1日が過ぎてゆく。
これを繰り返してさらに頭を悩ませる!、
という悪循環に陥り、憂鬱な気分になってしまう。
しかし、ふとした時に、突然「いいアイデア」が頭の中をかけめぐる時が来る。
今日はその「いいアイデア」が思いついた日で、「早く試してみたい!」と気分爽快でワクワクしながら帰宅していた。
どうして、これまで悩みに悩んで、
考え抜いても出てこなかったアイデアが急に出てきたのか・・・。
1つ挙げるとすれば、
いつもやっていた仕事に対して「少しのトライ&エラー」を繰り返していたことだ。
いつもやっている仕事を
「どうすればもっと面白て、納得のいくものを作り出せるのか?」
という質問を自分自身に常に投げかけ、
頭の中で「ここをこうやったらどうだ?→それはちょっと趣旨に合ってないな」とか「実際にちょっとだけ試して、やっぱり違うな」ということを繰り返していた!
それもメモに残して、何をして、どこがダメで、次はどうするのか、というようなことを記録として残していった。
それらを時間をおいてから見直すと、「これとこれを組み合わせたらイケんじゃね?」という風に、関連付けて考えることが出来るようになってくる。
こうなったらアイデアがビックリするぐらいたくさん思い浮かんでくる。
もちろん、それらがすべて上手くいくとは限らないが、これまでに考えてきたものよりも自信を持ってそのアイデアを仕事に取り入れることができるようになる。
ポイントは「いつもやっている当たり前のことからアイデアは引き出されてくる」ということだ。
何もない、まっさらな状態から突然アイデアが飛び出してくるわけではないのだ。
これまでに発明された様々なテクノロジーも、何かの基盤の上にアイデアとともに進化を遂げてきた。
雷は電気として利用できるように考えられ、電気は様々な機械を動かし、照明器具としても利用されているし、ガスの代わりにだってなっている。
自然界であたり前のように発生していたものが、アイデアを繋げていった結果、我々の生活をものすごく快適なものにしていったのだ。
そうなるまで、様々な試みと失敗を繰り返して現在に至っている。
このように、いつもやっていることをちょっとだけ変えてみて、失敗して、また試す、というのを繰り返していくうちに、その経験値が蓄積され、その結果「いいアイデア」が浮かんでくる。
そうやって「少しのトライ&エラー」を習慣づけて、「いいアイデア」を見つけ出し、より高みに自分を成長させていこう。
関心ごとに集中すれば余計な感情に振り回されない
今日は素晴らしく、自分の興味があることに集中できた。
朝起きてから夜寝るまで、好きなことだけを考えて1日を過ごすことができた。
集中力を乱してくる出来事や、人間関係がたくさんあった中で、ほとんどそういった余計なことに囚われず、関心ごとに集中できたのは素晴らしいことだ。
だから、今日という日はすごく満足感に満たされている。
今日を振り返り、なぜ余計なことを考えずに、好きなことだけに集中できたのかを考えてみた。
これは、逆説なのだが、
「余計なことを考えずに好きなことに集中できた」
のではなく、
「好きなことに集中していたから、余計なことを考えずに済んだ」のだ!
そう、考え方は逆なのである。
好きなことにさえ集中していれば、
他のことはどうでもよくなってくる。
めんどくさい人間関係も、客の身勝手なクレームも、
態度の悪いオッサンのことも、マナーの悪い他人のことなども、全て、無価値だということに気づいてくる。
逆に、このようなどうでもいいことに気を取られてしまうと、1日中ネガティブな感情に支配され、肉体的にも精神的にも疲れて、やる気が無くなってしまう。
こうならないようにするためにも、自分の関心ごと以外には集中しないということを習慣づけたいものである。
もっと言うと、嫌なことがあった瞬間はネガティブな感情が生まれてしまうのだが、そこからどれだけ早く、「そんなどうでもいいことは放っておいて、さっきやってた好きなことの続きをしよう」という風に切り替えられるかがポイントだ。
この切り替えをよりスピーディーに行って、好きなことにだけ集中すれば、その他の余計なことに振り回されず、気分良く1日を過ごすことが出来るし、自分はさらに高みに行くことが出来るため、やらないという選択肢は出てこない。
できるだけ、関心ごとに集中する癖をつけ、余計な感情に振り回されず、自分の人生をもっといいものにしていこうと思う。
明確でない目的は人に話せない
人から、「君は何がしたいの?」と聞かれる。
仕事や将来の夢、休みの日にすること、趣味などを、
家族や友人、同僚、上司、取引相手、学校の先生といった人たちに、少なからず話す機会があると思う。
そんなときに、言葉に詰まることがある。
「こうゆうことがしたい」と答えても、深く質問をされると上手く答えられない状況になってしまう。
思い返すと、こうなってしまう原因が2つある。
1つ目は、その場の思い付きでなんとなく口にすること。
当たり前だが、
その場しのぎの言葉なので、深く聞かれると答えられなくなってしまう。
こうゆうときは素直にわからないことを認めてしまうのが最善だ。
2つ目は、目的が漠然とし過ぎていること。
「これをやりたい」というビジョンはあっても、それを実現するための過程が不明瞭なため、質問されると言葉に詰まってしまう。
例えば、「企業したい」という話をしたとして、
「どういう会社を作る」や「どうゆうことをやっていく」などは、簡単に思いつくことが出来るが、
「いつまでに企業するのか」
「資金はどれくらい必要か」
「どこの土地に会社を建てるのか」
「自分の持っているスキルと、
持っていないスキルは何なのか」
「起業するためにどうゆう勉強をするのか」
「そのためには今からどうゆう戦略でやっていくのか」
などのように、かなり細かくプランを立てていないと、賢い人たちや権限を持つ人から質問された場合に答えられなくなってしまうのである。
日常会話なら答えられなくても問題はないだろうが、
面接や会議、取引交渉などの重要な場面で答えられないと、その時のチャンスを逃してしまうかもしれない。
また、人に話さなくても、不明瞭な目的は、自分がどういった方向に進んで行けばいいのかわからなくなり、その結果、不安や悩みを抱えてしまい、ひどい時には言い訳をして諦めてしまうのである。
自分の目的に、できるだけ明確な答えを持ち、聞かれたら事細かく答えられるようにしておこう。
それが正しい、間違ってるということは問題ではない。
自分の信念をしっかりと相手に伝えることが重要なのだ。